2015年5月28日木曜日

キューバ旅行記15町はずれの少女~バヤモ

 中心街から駅に向かい線路を超えると、道の舗装は途切れ町並みが一変する。
ほとんど外国人が来ない地域のせいか人に会うたびに声をかけられる。
そこに住む人たちはみんな気さくで優しく、写真を撮ると喜んでくれた。

  この頃から帰国したらスーパーポートレート塾に通おうと半ば本気で思い始めていた。
この時にはこの子を日本に連れて帰ってジュニアアイドルとしてデビューさせようと半ば本気で思っていた。なんてね。

2015年5月18日月曜日

キューバ旅行記13豚の一生~バヤモ

     朝方、鉄道駅周辺を探索していると豚の解体現場に出会った。
    それを撮影していると、後方の男の子が異常におびえた目つきでこちらを見ていた。
    まだ少年は豚の解体を見慣れていないのだろうか。それとも、こんなおぞましい光景を撮影する東洋人が奇特に見えたのだろうか。




     昼前に線路沿いの側道で先ほどの豚に再び出会った。
    豚は機械でぐるぐると回転しながら、直火でこんがりと丸焼きにされている途中だった。
    豚の体からしたたり落ちた脂が煙をもうもうと上がらせていた。


    そして、午後に同じ場所を通ると、ちょうど豚が焼き上がったところであった。
    この後豚は男の手によって切って売られて人々の胃袋を満たす。
    この旅行中、更には日常的に豚肉が何の苦労もなく手に入れられるのもこのような人たちのおかげということを目の当たりにし、命を頂いているということも忘れてはならない。

     ということよりも、写真のお礼、とおじさんが分けてくれた丸焼きがおいしかったという浅ましくも単純な感想で占められていた。
    なにしろ焼きたてだけあって皮がパリッとしていて、その周りの肉が口の中で脂と一緒にトロッと溶けて、この旅行中食べたものの中でダントツ一番なのは間違いなかった。
    もっと買って食べればよかったと今でも思うくらいだ。

    しかしながらこの豚も食べられることで、ぼくの身体の一部となり…ではなくて家畜としての生涯を全うしたのだ。

     「ブタ野郎!」とののしられ続けてきた自分は、自らの身体を捧げたとしても人の心を満たすことができるだろうか?
    ブタ野郎が豚をほおばりながら考えた。


キューバ旅行記12馬車馬たち~バヤモ

     サンティアゴクーバからバヤモに着いた。
    これまでいた都市と比べると規模が小さい上に、圧倒的に自動車の数が少ない。

     さすがにキューバでも観光用だろうと思っていた馬車が、ここでは立派に人々の交通手段として機能していた。
    ここでは、人も馬も自分のやるべき仕事をきっちりこなしている。
    人の役に立つ仕事をして、地に足の着いた生き方をしている。

     馬車馬のように働かされていたかつての自分は足元を見失っていたのではないだろうか。

キューバ旅行記11バスケットボールを蹴る少年~バヤモ

こらこら、バスケットボールは投げるものであって、蹴るものじゃないんだよ。

2015年5月15日金曜日

キューバ旅行記10勇を鼓して~サンティアゴ・デ・クーバ

     すれ違う男性が振り返り、女性ですらつい見てしまう。彼女はそんな華があった。
    いろいろな躊躇がありつつも声をかけると存外すんなり被写体になってくれた。

     この経験がこの後の旅行と写真を大きく決定づけたと言ってもいい。
    そして、魅力的な女性というのは、お高くとまらず、出しゃばらず、それで少しだけ異性の求めるものに応えてくれる存在なのかな、とも思った。



2015年5月14日木曜日

キューバ旅行記9おしゃべりな女の子~サンティアゴ・デ・クーバ

     「アタシの名前はね…アナタ何歳?アタシは3歳よ。あしたね…あしたね…」
    大人びた口調で話す彼女は、他のキューバの人と同じようにマニャーナ(明日)という言葉をよく使った。
    たいていの場合その明日が来ることはなく、その場の言い逃れとして使われている。

     ところで…明日に何があるはずだったの?

2015年5月10日日曜日

キューバ旅行記8学校帰りの小学生~サンティアゴ・デ・クーバ


    夕立に見舞われた。
    しかし、雨はすぐに止み、空には晴れ間が差した。
    人々が外に出始め、通りは再び活気づいた。
    雨上がりの街は斜光によって一層輝いていた。
    そして人々は皆楽しそうだった。


2015年5月4日月曜日

キューバ旅行記7永遠に生き続ける写真~サンティアゴ・デ・クーバ

     路地を探索していると、年配の女性から家の中に入らないかといったジェスチャーをされた。
    彼女がぼくに危害を加えたり、面倒なことに巻き込む危険は少ないと思い、薄暗い家の中に入った。

     「私の祖父は中国人です。」そう話すと、古い写真の詰まったアルバムを広げて見せてくれた。
    きっとぼくが東洋人であること、カメラを下げていたことで話をしたかったのだろう。
    部屋には他にも家族の写真が数枚飾られていた。

     キューバ人は写真を大切にする。
    記念の時や家族の集合写真、どんなに貧しそうな家庭でもテレビと写真の飾られていない家はなかった。

     前回キューバを訪れたのが2年半前だった。
    その間に大きく変わったと感じたのがカメラ機能の付いた携帯電話やスマートフォン、中にはデジタルカメラを所持する人が増えてきたということだった。
    しかし、多くの人にとってカメラや写真に触れる機会が日本に比べたら少ないことは間違いない、プライオリティが格段に違うのだ。

     彼女の家に飾られている写真、見せてくれた写真はどれもモノクロで色あせたものも多かった。
    屋内の調度からすると彼女の家庭はかなり貧しているようであった。
    何らか撮影機能の付いた機器を有しているとは思えなかった。
    今は新しく写真を撮ってもらう余裕がないのか、それとも撮影をする機会や行事がないのであろうか・・・

     今の境遇を彼女がどう感じているかはわからない。
    彼女にとってよりどころがあるとすれば何なのだろうか。
    部屋に置かれた十字架、それとも社会主義の恩恵である配給なのだろうか。
    写真の中の人たちは今の彼女よりも楽しく美しく幸せに生きているように見えた。
    他でもない、彼女の写真の輝きが一家の姿を象徴していた。
    あの時代、あの時の写真は華美な思い出として生き続ける。
    一枚一枚が彼女をこの世に存在させえる最も力強い支えのようだった。

     彼女の家にあったものこそが写真なのだ。
    カメラや携帯電話パソコンの中に入った画像は単なるデータに過ぎない。
    一枚の紙に焼き付けられて初めて写真の生命を吹き込まれる。
    宿泊先や食事などを撮影したところでほとんどは記録でしかない。
    それを超えるには撮影者の技術や意志や情熱が必要だ、しかしぼくにその一切は備わっていない。

     ぼくは、この旅行中、命の次に撮影機材を大切にしてきた。それこそ死守してきたといってもいい。
    身の回りの品で最も高価であったが、そのことはあまり関係がなかった。
    撮影枚数が増えるにつれて画像を記録した媒体がそれに加わった。
    カメラ、写真を撮ることそしてそれらを守る行為もたいして意味のないことなのかもしれない、ぼくの撮影した殆どはプリントされることなくハードディスクの中で眠り続ける。

     夕食の時などカメラだけでなくバッグも持たずに外出すると、本当に身も心も軽くなることがある。
    お酒を飲んだり音楽を聴いたりダンスを踊ったり・・・ キューバは写真におさめたいものがあふれている国だが、カメラがなくても、逆に持たないからこそ楽しめる部分も大いにある。
    さらには移動中、重い荷物に必要以上の体力と神経を使い、これさえなければと恨めしく感じたことが幾度もあった。
    しかし、カメラと写真があることで生まれた出会い、取れたコミュニケーションも多く発生した。

     いつもぼくの旅にとってカメラの存在は諸刃の剣だ。
    日本にいる時はいろいろな人の撮ったキューバの写真を見て、その多くに込められたキューバの色、熱、においに魅了された。
    そんな写真が撮りたかったし、撮れると思った。 だけど、彼女とその写真に改めて気づかされたことがある。
    「被写体と、その周りの人に喜んでもらえるような写真を撮ろう。」 
    それこそがぼくの目指す写真なのだ。


2015年5月3日日曜日

キューバ旅行記6イマドキの中学生~サンティアゴ・デ・クーバ

     サンティアゴデクーバに到着すると、めぼしい場所に宿を決め、荷物もそこそこに街へ出た。
    ぼくは荷物の整理が遅い上、宿に到着してから街に出るまでに時間がかかる。
    部屋の中や自分の写真を撮ったり、着替えたり、時にはビールを飲んで一息ついてから街歩きが始まるのだ。

     しかし、キューバではすぐに出かけてしまうことが多かった。
    それだけ外が楽しく刺激に満ちて、一刻も早く多くの写真が撮りたくなる。宿にいる時間がそのまま出会いやシャッターチャンスの機会の損失になると思い焦ってしまうのだ。

     それにしても、サンティアゴデクーバの子供や若い子のタチの悪さは健在であった。
    本当にどうしようもなく人を疲れさせ困らせるのだ。
    そこが好きと言ってしまえばそれまでだし、ぼくをそれを分かっていながら、群れに飛び込んでしまうので余計にタチが悪い。

     あの辺りのクソガキ共はたいてい掌握したつもりだけど、向こうからしたらいいようにしてやっていると思っているはずなので、お互い様である。