最後まで忙しかった訓練ではあったけれど、勉強の合間に部屋の窓から、そして授業が終わると建物の外に出ては空を眺めて、今までにないくらい空の写真を撮った。
訓練の修了、この景色との別れが刻一刻と近づいていることを想って心が震えることもあった。ぼんやりとしたり、他のことを考えたりすることもあった。
高村光太郎の智恵子抄でも詠まれている「ほんとの空」 朝に昼に夕に美しかった |
同じように英語の授業中、頭の中が空っぽになっていると声をかけられた。
"What are you thinking?"
あわてて答えを作った。
"About world peace..."
世界平和・・・
ぼくはそのためにいったい何ができるのだろう。
ある日、パイ投げの的になりたいと言ったことがあったが、忙しさで忘れてしまっていた。
しかし律儀にも同じ班の人たちが覚えていてくれて、訓練修了近くになって、見事に顔面を狙ってパイを投げつけてきた。
自分にとって何気ない一言であっても、ほかの人にはしっかりと残っていたりすることもあるから、不用意な発言には気を付けた方がいい。
危険を察せない者はこの世では生き延びることができない
動物的な本能で飛んでくるパイをかわしたものの、一部は頭の先に付いてしまった
これが銃弾であったなら、死亡という派遣前のいい教訓でもある
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なぜ、パイ投げなのか?
キリストは人々の罪のために磔にされ杭を打たれた。
セバスチャンは全身に矢を浴びた。
ぼくにとってパイ投げの的になることは、自らの罪を拭い、人々の幸せを願って、生贄となり殉教に等しい行為で、それは世界平和に通じると信じていた。
直撃を志願した後 クリームが付いた顔で世界平和を唱えても全く説得力がない |
しかし、神聖さのかけらもない神への冒涜にも等しい我が殉教で起こったのは俗的な「笑い」だった。
ぼくは地球規模での平和構築は難しくても、周りの人や狭い地域であればそこに平和をもたらしたり、人々を幸せにしたりすることはできると考えている。
パイ投げと平和構築は遠いようだけど、もしそこに笑いがあれば、それは平和とつながるのだからあながち間違いではなかった気もする。
と思うことで自己犠牲、いや、マゾヒズムに有意性を持たせようとしているのだ。