2016年7月27日水曜日

一時帰国から帰国して

5月中旬から6月の中旬まで、約1カ月間日本に帰っていた。

ブログはおろか全てのSNSの更新も滞り、最初はやる気満々で始めたけど、活動開始から半年、飽きと面倒から続かなくなった典型的なパターン。ケッケッケ…とこのままでは失笑されそうだ。

中に、「何かあったのでは?」と心配してくれる人がのために(いるのか?)重いペンならぬキーボードをとった。

実は、母が死んだ。
しかもかなり突然に。

それを理由に帰国し、1カ月間日本にいたのだから、ブログを更新している暇があったら、ガーナに戻るのが賢明だと更新を控えた。
それから、何から書こうかと迷って1カ月が過ぎた。

サトウキビをかじる子どもの写真
第二次ガーナ生活での写真
一般のガーナ人にとってサトウキビは丸かじりするものであって
ジュースにして飲んだりはしない



荷物の再調達や入れ替えがしたいがために帰国を予定し、食べたいもの、荷物の選別を記して、帰国の日を待ち望んでいた。

ところが、母が危篤に陥って長くはない命であると知らされた。
一刻も早く帰国したい気持ちで、緊急で見舞帰国に切り替えたものの、最短でもガーナから出国できるのは翌日の夕方だった。
アフリカは遠いと判っていたが、この時ばかりはこの国、この僻地が恨めしかった。

更に、首都アクラから飛行機の遅れが発生したので、最短で日本で着くように乗り継ぎ便を変更した。
経由地のドバイから家族に電話するとまだ息はあるとのことで、まだ、母が亡くなることが信じられなかった。

成田空港についた時点で既に母が亡くなっていたことを知らされた。
フライトが遅れていなければ臨終には間に合っていたはずだった。
半ば放心の中、実家に戻る車窓から見た夕日が異様に赤かったのを覚えている。
任地では、夕刻となると西の空に雲がかかることが多く、夕日が綺麗に赤く染まることが少ないのだ。


楽しみであった帰国は、時差ボケの中、葬儀の準備から始まった。
母の亡骸を前にし、死は受け入れられたが、意外なほど悲愴感はなかった。
アフリカなる場所と環境に身を置くと、あらゆることが起こりうるという考えを持つようになった。
そして、それが時として最悪の事態が発生することも否定しなくなった。
不謹慎ながら、このような形で親の死を迎えたことは、ある意味で良かった気がした。

葬儀が終わり、落ち着いてくると、今度は家族の料理番で食事の準備に追われるようになった。
食べたいものは自分で作っていたが、人の生き死という問題の前には、食やモノにこだわっていたことがどうでも良くなってきた。

妊婦さんの写真
ガーナでマタニティフォトの概念があるのかわからないが
赤ちゃんが産まれたらまた撮ってくれと頼まれた

それでも、しばらくするとガーナの生活を考えるようになり、メモに記したもの、それ以外の荷物が徐々に増えていった。
ただ、帰国によって物質よりも精神的な恩恵の方が大きかった。
帰国直前は怒りの沸点が低くなって、自分でもバランスが崩れているのが分かって、癇癪を起し老若を問わず立ち回りを演じていた。
帰国してもしばらくはガーナのことを思い出すとイライラしていたが、次第に治まっていった。
残された日本での期間が減るにつれ憂鬱さが増したが、戻ってみると憑き物が落ちたような気分で、何を忌み嫌っていたのかが不思議だった。
日本でリフレッシュしたことで、活動への熱が再充電されて、前向きなな精神を取り戻すことができたのだろう。



オールを持つ少年の写真
海は写真を撮りに行くためでなく
魚介類の物色の場所となっている
最近は写真より料理の方が楽しい
距離と時間、文化が離れているほど日本への憧憬は強く、それと旅費は反比例する。
帰りたい気持ちをこらえて2年任国で勤め上げるのも、活動の仕方だし、今後の人生で大きな自信となるはずだ。
だけど、環境と時間、フライトのチケットを捻出できるのであれば、帰国がプラスになることの方が多いと思う。

ぼくは、日本にいた時、退屈に感じることが多く、不満も多かった。

海外で一生暮らし、死に場所が日本以外でも構わなかった。

だけど、近頃ではそれが揺らいで来ている。

あれだけ合わないと考えていたが、実は日本しか適応できないかもしれないこと。
そして、ぼくにとっても死が少しづつ確実に迫っていると感じたこと。
それらに、少し恐怖を覚えた。

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